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RRのエピソード:いよいよ歌手デビュー(20)スポレート〜ローマ歌劇場へ [ L.Magiera著:RR]

10月13日の記事の続き。
1964年ボローニャ音楽院での勉強も3年目となる。ルッジェーロ(22才)は、音楽院の発表会は大成功で拍手喝采を受けます。次はスポーレートでのコンクールに挑戦です。
(私=レオーネ・マジエラ)

予想通りに、ルッジェーロは、スポレートのコンクールで優勝した。そして『ボーエーム』で、ウンブリアの市民劇場でオペラデビュー、1964年9月23日22才だった。新人として最高のコッリーネだった。ピエルヴェナンツィが、その時、友人のプリニオ・クラバッシ"Vecchio Zimarra"を最高のモデルとして彼に聴かせたと私は信じている。というのは、クラバッシの"Folgore,Morte!"は前に書いたがピエルヴェナンツィには不満で期待通りの成果を上げなかったが、コッリーネについては、最高にすばらしい詩的で示唆に富むコッリーネを創り出しているとピエルヴェナンツィは考えていた。

さて、新学期が始まった。もしかしたら、私の第4コース(4年生)の学生名簿にルッジェーロの名前が登録されているのではないかと捜したが、もはや、音楽院で彼を見かけることはなかった。特にアーダとブルーナの落胆は大きかった。そして、新任の学長のゼッキも同様だった。彼は、あの忘れられない発表会の後、彼の大ファンになっていた。
(ということは、卒業資格=ディプロマはとらなかったということですね。お母さんもあきらめているでしょう)


 私はといえば、ここ数年、ピアニストとして指導的活動に力をそそいでいた。そのため音楽院でも講師を続けながら頻繁に出張するという多忙な毎日であった。

 そのため彼の第二のデビューにさえ駆けつけられなかった。今回は、ローマの大きな劇場で、大御所ジャナンドレア・ガヴァッツェーニによる指揮で、震え上がらせる役、つまり、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」のジョヴァンニ・ダ・プロチダだった。

 チェーザレは、この重要な夜の出来事、スポレートの「ボエーム」からわずか3ヶ月後の1964年12月16日の一部始終を私に話してくれた。スポレートでの成功に続いて、ルッジェーロは、ローマ歌劇場に推薦されて、マッシモ・ボジャンキーノのオーディションを受けた。偉大な由緒ある家系の音楽家は、若者の優れた能力にすぐに気づいて、ガヴァッツェーニにそのことを話していた。要求の多いうるさい指揮者であったが、新しい才能の誕生に最も注意を払っていた。

 ガヴァッツェーニは、ルッジェーロに若いアーティスト達にいつも受けさせるマラソンのようなオーディションを受けさせた。2回"O tu Palermo"を彼に歌わせて、それから次に総合的に音を持続する能力を審査するためにナブッコのアリアと、"Infelice e tuo credivi"(エルナーニのシルヴァのアリア)とドン・カルロのフィリッポの大アリアの3つのアリアを歌わせた。

 ルッジェーロは、厳しいテストをひるまずに続けた。そしてガヴァッツェーニは、緊急事態の場合に、彼に代役を任せられることを確信した。そこでルッジェーロに、「シチリアの晩鐘」のプロチダ役の正歌手ニコラ・ロッシ=レメニのカバーあるいは代役の契約を申し入れた。イタリア語版での上演という理由もあったが、ルッジェーロは、喜んで同意した。

 チェーザレは続けた。「ガヴァッツェーニは、ルッジェーロが音楽院であなたに言われた同じことをルッジェーロに助言したそうです。つまり、偉大な芸術家の役作りとか演奏の解釈を注意深く観察すること、そして、より良いものを取り入れて、自分自身の個性にそれを適合させながら、自分のものにするように努力すること。そうですね?」

 「チェーザレ、その通りです。あなたは、真の舞台人について論じています。」と私は彼を力づけた。チェーザレは、意気揚々と、更に熱のこもった話を続けた。

 「ロッシ=レメニは、ゲネプロの時に、むくんだ腫れぼったい顔で劇場に現れたのです。しかも涙目で、ものすごく声がかれていました。イタリアにインフルエンザが蔓延していて、アジア風邪と呼ばれていたと思います。結局、最初の《中央のド》の出だしの音 "O patria"の言葉に付けられた長く伸ばす音符のところで、非常におかしな 声を出しました。なんと言えばいいのか分かりませんが、キーキー音を立てて動いている貨物列車のような音でした。」
 「完全にアウトですね。 それで?」私は笑いながら尋ねた。
 「それでも、闘争中の老人プロチダは戦いをあきらめませんでした。劇場の仲間言葉で言われている《ふりをしながら》リハーサルを続けて、難しいパッセージではオクターブ下げて進みました。しかし、二日後の初日に間に合うように回復する見込みがないことは明らかでした。」
 「そこで、ルッジェーロが非常召集されたのではないですか?」
 「結果的には確かにそうです。しかし、劇場のトップは、ボジャンキーノが反対したこともあって、このような重要なオペラで、ルッジェーロのような完全に無名でしかも未経験者を舞台に立たせるというリスクをおかすことはできないと考えました。それで、必死になって世界中に電話をかけてまわったそうです。しかし、有力なすべてのバス歌手は、他の歌劇場での先約があるということがはっきりしただけだったのです。」

 そこで、ガヴァッツェーニは、トップに意見を求められた。彼は、ボローニャのあの若者の天分を自ら保証することを断言した。彼の権威のある言葉が、知名度の高い歌手を捜すことに終止符を打たせた。

 そして、最初の日ルッジェーロは、劇場に現れた・・・・
 「腫れぼったくむくんだ顔と涙目で、二日前のロッシ=レメニと全く同じでした...」とチェーザレは続けた。
 「えっ、悲劇的な状況ですね、それで!」ー続くーLeone Magiera"Ruggero Raimondi"

参考:
◇アドーネ・ゼッキ:Adone Zecchi 1904.07.23-1980 作曲家、指揮者
◇マッシモ・ボジャンキーノ: Massimo Bogianckino 1922.11.10- イタリア ピアノ
◇ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ:Gianandrea Gavazzeni 1909.07.25-1996.02.05 イタリア 指揮
◇ニコラ・ロッシ=レメニ: Nicola Rossi-Lemeni1920.11.06-1991.03.12 イタリア(バリトン)
◇プリニオ・クラバッシ:Plinio Clabassi 1920-1984.10.22 イタリア(バス)8月18日の記事にいきさつが書いてあります
1973年HNKが招聘したイタリア歌劇団で一緒に来日。8月26日の記事
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コメント 7

わっ、ドキドキするところで終わっちゃいました!どうなるか続きが気になります!
by (2005-10-17 23:01) 

keyaki

りょー さん、私も気になって必死で読みました。
事務所で電話番しながら・・・(笑)
帰りの電車で、思い出して想像すると笑えてきて困りました。
ガヴァッツェーニ大先生の顔が目に浮かんだりして。
プロチダ登場の音楽を知ってた方が面白いと思うので、一緒にアップしますね。
楽しみにしていて下さい。
by keyaki (2005-10-17 23:24) 

Sardanapalus

>音楽院で彼を見かけることはなかった
歌手としてやっていけるなら学校にいる必要はないですもんね。結局ディプロマは無しですか(笑)でも、きちんと歌手として成功しているのですから、お母さんも納得していることでしょうね。

>特にアーダとブルーナの落胆は大きかった
ここ、笑っちゃいました!かっこいい同級生(?)がいなくなってガッカリする気持ちは分かりますけどね~(笑)

私もドキドキしながら続きを待っています!
by Sardanapalus (2005-10-17 23:43) 

euridice

RRのデビューに便乗させてもらって、以前の記事ですが、TBしますので、よろしく!
RRのデビュー秘話?の続きが待たれますが、(ドキドキ)
P.ホフマンもデビュー直前は、ひどい状態だったという話です。

「プレミエの前のこのつらい夜。私の声は傷み、そして、私はその声に苦しみ、さらに妻は私に同情して共に苦しんだ。咳、咳払い、喉のつかえ、そしてこれを、朝まで、はじめから同じように繰り返す。」

大変ですね、歌手という仕事も・・
by euridice (2005-10-18 00:45) 

助六

ガヴァッツェーニ、大耳効きだったのですね!
スカラとラヴェンナ音楽祭で、晩年の彼が指揮する「フェドーラ」と「ポリュート」を聴いたことがあります。大変シェマティックで、音楽に枠をはめていくような指揮でしたが、パッションの噴出も欠けていませんでした。枠の形の正確さにかけては並ぶものなき権威といった風情で、私にとっては「ヴェルディとは異なるベルカントとヴェリズモの様式とは如何なるものか」という問いへの回答を具体的な形で聞かされた初めての経験で、今でもある種の拠り所になっています。

ボジャンキーノは、ローマの後、スポレート・ミラノ・フィレンツェ(ムーティ時代)を経て、83-85年パリの総監督でした。「バタフライ」の2版平行上演とか、ロッシーニ「モイーズ」、マイヤベーア「悪魔のロベール」、ケルビーニ「メデ」、ヴェルディ「ジェリュザレム」らの仏語オリジナル版上演とか、パリ・オペラ座の歴史的アイデンティティに沿った凝ったプログラミングで通の評価は高かったけど、必ずしも聴衆・プレスの支持を得られなかったせいもあってか、フィレンツェ市長出馬(確か共産党)の話が持ち上がると、さっさとパリは任期終了前に辞任してしまいました。パリはその後暫く低迷期に入ることになります。
by 助六 (2005-10-18 08:59) 

keyaki

Sardanapalusさん、euridiceさんコメントありがとう!
16才から学校に行っているのに・・ですけど、チャンスをのがさないために卒業資格を切り捨てたということですね。
もう一つの本の方に、
「彼は、欲しいものは、とにかく、すべて手に入れた
・・・ドーラ・ライモンディ、息子ルッジェーロについて」
なんて副題がつけてあったりします。

euridiceさん、
前にも読ませて頂きましたが、また読んで笑っちゃいました。
by keyaki (2005-10-18 20:07) 

keyaki

助六さん
ボジャンキーノってどこかで聞いたことがあると思ってました。
いろんなところでつながりがあるんですね。
ピアニストということになっていますが、総監督とか市長とか日本ではいないですね。
by keyaki (2005-10-18 20:24) 

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